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香りのエッセイ

■第十五話 香りと文学 2

第十五話 香りと文学 2

laconditionhumainepicture今回ご紹介する『人間の条件』の著者アンドレ・マルローは執筆活動のみならず、軍人でもあり、さらに文化大臣でもあったフランスの作家です。

 

私がマルローを知ったのは、画家バルテュスをローマのフランス・アカデミー館長に指名したのがマルローだというエピソードを読んだことがきっかけです。

 

さらに自らが創設したパリ管弦楽団の音楽顧問に、ヘルベルト・フォン・カラヤンの就任を要請したのもマルローとフランス政府でした。

 

色々なところで名前を目にしているうちに、「アンドレ・マルローとは何者か?」と興味がわき、最初に読んだのがこの『人間の条件』です。

 

この小説は1933年にかかれたもので、中国の国民党と共産党の内戦を背景に、主に共産党側の人物の生き様(というより死に様)が描かれています。

 

ニュースで死者○万人という数を見聞きしても、それはただの数字としか感じられませんが、この小説では、死への行為からそこに至るまでの数秒間の出来事がつぶさに書かれ、非常にインパクトがあります。

 

2015年現在、日本では絶版となっているようですが、フランスで権威のある文学賞ゴンクール賞を受賞したり、1999年に発表されたルモンド世紀の100冊で5位に選ばれたりしています。

 

この「香りと文学2」を書くにあたり、候補となる作品は多々ありましたが、香りとは全く関係無く、壮絶な死のシーンと事後の空しさを感じたくて久々に再読した『人間の条件』に、意外と香り(というよりにおい)の描写があったことから、今回のエッセーに選びました。

 

息を飲む暗殺の場面から始まるこの物語にロマンティックな香りの描写はありませんが、登場人物たちは戦場の極限状態の中、感覚を研ぎ澄ませ、においを感じ取っています。

 

さて、それでは、各場面を見ていきましょう。

 

まずは、外の通りで仲間と語り合う際に漂う空気の香りの移り変わりです。

 

 

彼らは歩いた。二つの同じような影が足もとに落ちていた。・・・魚や焦げる油のにおいの漂う、静かなほとんど森厳な闇の奥に消えていた。(1)

 

それに、清には陳の顔が見えなかった。ひっそりした通りでは、遠く自動車の鈍い爆音が、風の音とともに消えた。風が凪いだあとには、夜の樟脳くさい空気の中に、果樹園の匂いが漂った。(2)

 

 

闇の中で周囲が良く見えない分、聴覚や嗅覚が敏感になっているように感じる場面です。ちなみに樟脳の香りは113.ページでも書かれています。

 

暗闇で感じるにおいについて、より決定的な描写がもっと先に出てきます。

 

 

戸外の空気が、森のそれのように心を静めた。霧は、十一時ごろよりずっと薄らいでいた。たぶん雨が降ったのだろう。なにもかもがぬれていた。暗闇の中に黄楊も柾木も見えなかったが、そのほろ苦い匂いでその暗い葉の繁みがそれと分かった。(3)

 

 

背景は1927年ですから、当時は今では考えられないくらい夜は暗かったのでしょう。

 

続いては、戦闘の直前に漂うにおいを敏感に感じ、昔の戦場を思い出し、緊張感を高める石油や石炭のにおい。

 

 

石油の強烈なにおいが、ふっと、陳に、暴動の最初の日、警察の焼き打ちに使った石油かんを思い出させた。(4)

 

 

68ページでコミュニストの仲間であるカトフも、石炭のにおいを嗅いで過去の戦いの記憶を思い出しているシーンがあります。どうやら石油や石炭のにおいは戦いの記憶をよみがえらせる様です。

 

 

ここからは、少々きつい死のにおいです。

 

 

死体のにおいが、風のさっと吹くたびに、じっと動かぬ日差しの中に漂って来た。彼は、その死臭には慣れていたが、およそ生ある者の本能的な反抗でそれをかいだ。ぞっと悪寒に襲われながらも、心ゆくまでそのにおいを吸い込む彼は、陳の面影につかれていた。(5)

 

 

164ページで、鈍い日差しとともに犬がなにかの死体に食いついているにおいについての描写があり、仲間に手を貸してあげることが出来なかった後悔の念が強調されるように、その前後にこの死臭について書かれています。

 

さらにお次は、自らの立場が劣勢になり、孤独な逃亡の中、風に乗って運ばれる不快な臭いが徐々に強く感じられ、自らの死が近づいていることにおびえる恐怖の死臭。

 

 

死、じぶんの死すら、ここでは、じぶん自身侵入者のような気がしたほど人の世らしくないここのふんい気の中では、さして切実には感じられなかった。・・・支那人町の死臭が、また吹き出した風に運ばれてきた。クラピックは、呼吸をするのにも、努力しなければならなかった。不安が戻ってきたのだ。彼は、死の考えには死臭よりまだしも容易に耐えられた。この死臭が徐々にこの風景を侵してきた。・・・≪これは夢かしら?≫しかし、悪臭は、彼を、この世に、この不安な夜に引き戻した。(6)

 

 

前述のコミュニスト(エンメルリック)が「仲間に手を貸すことが出来なかった後悔」で、死臭を吸い込んでいた描写から一転、ここでは零落した骨董商(クラピック)が見舞われた、耐えられないにおいとして書かれています。

 

そして、自分の家族が惨殺され、一面に広がった血の海から、息も出来ないほどの臭気を放つ血のにおい。

 

 

女房は、胸を紅に染めて、うずくまるようにしてカウンターにもたれかかっていた。片隅には子どもの片腕。その手は、こうしてからだから切り放されると、いっそう小さく見えた。・・・靴底を通して、ねばねばした床が感じられた。・・・エンメルリックは、一面に流れた血のにおいに圧倒されて、ほとんど息もつけなかった。・・・しかし、彼はこの場を立ち去れなかった。(7)

 

 

前述のエンメルリックは再び死のにおいに直面しますが、今回は自身の家族。息もつけないほどでしたが、彼は復讐の思いを胸に再び歩み出します。

 

最後に、投獄された時に感じた不快なにおい。

 

 

監房にはいると、あたりを見る前に、鼻持ちのならない悪臭に茫然とした。まるで屠殺所か、犬小屋か、糞のにおいでいっぱいだった。(8)

 

 

全てではありませんが、これが『人間の条件』に書かれた香りの表現です。いかがでしたでしょうか?

 

これらの香りの表現は特別印象的に書かれている訳ではなく、まるで不快感や不安を煽る演出のように存在しています。

 

この小説は触覚と視覚、聴覚に関してはかなり詳細に書かれていて、特に人物の死ぬ場面で、「マルローは実際死を体験しているのではないか」と思うほどのリアリティを持って書かれています。

 

嗅覚に関する描写はそれほど多くはありませんが、文章の上手さでしょうか?書かれていない部分までにおいを感じていたところがありました。例えば、爆風で吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた時に感じたような「砂ぼこりのにおい」。書いてあった気がしましたが、実際には書かれていませんでした。スローモーションのように描かれる戦闘のシーンでは直接書かずともにおいが感じられる様なリアリティのある描写が行われていると感じています。

 

なんだか、においの描写を抜き出していたら、ひどく凄惨な物語のように紹介することになってしまいました。実際お気楽な内容ではないのですが、後味は悪くありません。戦いの悲惨さがテーマの作品では無いからです。おそらくこれは意志の物語でしょう。この発表された時、マルローは31歳でした。この物語にはジゾール老人という主人公の父親がいるのですが、戦闘から一歩引いた年長者の視点が、いわゆる戦争作品とは異なる印象を与えているのだと思います。ロマンティック過多な読書傾向の私にとっては、かなりのインパクトがあった作品です。

 

全くの余談になりますが、この作品は今まで数度映画化が検討されたようですが、いまだに実現されていません。その中の一度は、あの坂本龍一氏がアカデミー賞を受賞した『ラストエンペラー』と共に、ベルトルッチ監督が中国政府に提案した企画でした。結局、中国政府は『ラストエンペラー』を選び、ご存じのとおりアカデミー賞9部門を受賞した名作となりました。

 

今回はかなりヘヴィーな内容となりました。次回はロマンティックな描写が多い作品を選ぶ予定です。

 

 参考文献

Malraux André著, 小松清・新庄嘉章訳 『世界文學全集33 人間の条件・王道』 新潮社, (1962)

 

引用文献

(1)Malraux André著, 小松清・新庄嘉章訳 『世界文學全集33 人間の条件・王道』 新潮社, (1962) p.135

(2)同上 p.137

(3)同上p.225

(4)同上p.171

(5)同上p.166

(6)同上p.225-p.226

(7)同上p.233

(8)同上p.257