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香りのエッセイ

■第六話 香りと文学

第六話 香りと文学

 文学の中で表現される香りの世界

 

【エミール・ゾラとは】
香りは文字から嗅ぎ取る事は出来ませんが、文学作品にも香りが印象的に使用されている場面があります。今回のエッセーではそのような香りが印象的な作品をご紹介したいと思います。フランスの作家エミール・ゾラによる花々の饗宴「ムーレ神父のあやまち」です。

エミール・ゾラは高校の世界史に名前が出てくる19世紀末に活躍した作家で「居酒屋」や「ナナ」等の代表作があります。

ゾラはフランスの第二帝政時代(1852~1870年 ナポレオン三世が皇帝。オスマン大改造により不衛生で入り組んだパリの道が整備され、現在の美しい町並みに作り変えられた時代。)を、一つの家族を通して社会史の物語として全20巻からなる「ルーゴン=マッカール叢書」を書きました。

「居酒屋」、「ナナ」の代表作や今回ご紹介する「ムーレ神父のあやまち」もこの「ルーゴン=マッカール叢書」の20作品の中に収載されています。

 

【ルーゴン=マッカール叢書とは】
叢書(そうしょ)とはシリーズの意味で、精神障害を持つ一人の女性を始祖とするルーゴン家、ムーレ家、マッカール家のファミリーの一員がそれぞれの作品の主人公となっている物語です(ムーレ家はマッカール家から分かれているのでタイトルには含まれていません)。これらの作品は一つ一つが独立しているので、一巻、二巻と順番に読む必要はありません。

ルーゴン家は大臣や投資家、医者などがいて、ムーレ家は百貨店社長、神父など、マッカール家は芸術家、娼婦、炭鉱夫、洗濯女など階級を超えた様々な職業が登場して当時の社会が様々な角度から描写されています。

また、複数作品に登場する人物もいます。たとえばマッカール家のエチエンヌ・ランチエは「居酒屋」で小さい子供だったのが、時を経て「ジェルミナール」ではストライキを扇動する炭鉱夫になっていて「あの子供だったエチエンヌが大きくなって!」といった感があります。

ゾラは「遺伝には重力と同様に法則がある」と語り、ルーゴン=マッカール家32人それぞれの遺伝的特徴と行く末が書かれたルーゴン=マッカール家系樹にその世界観を凝縮させています。

私はこのような壮大なシリーズであるとは知らず、第11巻の「ボヌール・デ・ダム百貨店」を手に取り、読み終わった後に叢書の一部である事を知り「この重量感ある物語が20巻の中のたった一つだったなんて…。」と圧倒されました。そして家系樹を見たときの衝撃は、まさに一つの世界に入り込んだような感覚でした。(家系樹が掲載されている書籍は、下記の参考文献をご参照ください。)

この叢書、日本では藤原書店さんと論創社さんを中心に、2000年代に全巻翻訳されています。

 

【文豪による香りの表現】
さて前置きが長くなりましたが、この「ムーレ神父のあやまち」は、前述のムーレ家に属する神父セルジュ・ムーレが主人公の物語です。

代々受け継がれている精神障害を持つ神父が狂信的な信仰の末、熱病で倒れ、村の外れパラドゥーと呼ばれる外壁で隔離された広大な庭園に運ばれる。そのパラドゥーで看病してくれたアルビーヌという少女に導かれパラドゥーの楽園的自然に魅了されていく。その先に待ち受ける二人の運命は…。

ざっとこのようなあらすじなのですが、人間、動物、植物が生と死のテーマの下、強烈なコントラストで描かれます。3部構成のうち第2部がパラドゥーでの出来事に充てられており、この中の自然描写にともなう香りの表現が魅力的です。

 

 

「太陽がだんだんとのぼり、木々の高い梢からもれる光が、より熱くなってきた。黄、白、赤、色とりどりのバラの花たちは、よろこびに輝き、微笑を交わしていた。ふたりのまわりで、つぼみもいっせいに開きはじめた。花々はふたりを冠で飾り、腰に花輪を投げかけた。そして二人の吐息かと思えるほど、甘くうっとりした香りを発散していた。」(1)

 

 

病床から体調が徐々に回復していきパラドゥーを散策し始めた頃の文章です。これはまだ序の口でその後、奥へ進むほど様々な香りを持つ花が次々と登場します。バラ、カーネーション、ジャスミン、モクセイソウ、スミレ、クルマバソウ、ヒヤシンス、チュベロース、ヘリオトロープ、スイカズラ、クマツヅラなどなど…。その中から特徴的な一文をご紹介。

 

 

「甘美なスイカズラ、麝香の匂いのするスミレ、さわやかな接吻の香りを発散するクマツヅラ、悶絶しそうな強烈な逸楽の香りをむんむんさせているチュベロースなどなど。」(2)

 

 

また、別の個所でチュベロースはヒヤシンスと共に「みずからの匂いに窒息しそうになっている」と表現されています。何とも面白い表現ですね。これほどの種類の花々が香りを含め登場する物語を今まで私は読んだ事がありません。また、花だけでなくハーブも出てきます。

 

 

「つづいて、タイム、セージ、ラベンダーなど、さまざまの香草の群生、それから、荒々しいネズの木の繁み、さらに強い香りを発散するローズマリーも目にとまる。ローズマリーのあまりに強烈匂いには、ふたりはすっかり酔っぱらってしまうのだった。」(3)

 

 

さらに、良い香りだけでなくいやな香りも。

 

 

「そして、もはやうっとりと酔わせてくれるタイムやラベンダーなどの香草はなく、強烈な刺激臭のあるニガヨモギとか、ひどい体臭に似た匂いのするヘンルーダ、悩ましげな粘液に濡れているカノコソウなど、毒々しい植物がふたりを打ちのめした。」(4)

 

 

その他、ケシの花は「死臭」、キンセンカは「腐臭」などとも…。これらは実際に嗅いだ事が無いので何とも言えませんが、個人的には天然香料では鼻の奥に残る様な強烈な刺激臭を持つヴァレリアンやスパイシーな体臭を想起させるクミン。合成香料では、出来そこないの石けんの様な香りのAldehyde C-6(フレーバーで使用)、身体が拒否反応を起こしてしまう様なケミカルな印象のグリーンノートcis-3-hexenyl acetate(トップノートに使用)などが苦手な香りです。
もちろん個人差があるので、「変わった匂いだけどそこまで言うほど酷い香りでは無い」という人もいます。

 

やがてパラドゥーでのクライマックスがやってきます。

 

 

「花壇からは、花々のうっとりとする芳香が漂ってくるとともに、婚礼についてのバラたちの果てしないおしゃべりや、スミレたちの甘美な逸楽を唆らせる声が、きこえてくる。ヘリオトロープたちときたら、これまでにない官能たっぷりの艶かしさをふりまいているのであった。果樹園からは、熟れた果実の芳醇な香りが風に運ばれてくる。ヴァニラにも似たアンズの香り、麝香のようなオレンジの香りなど、まさに豊かな成熟と多産の匂いそのものである。」(5)

 

 

 

 

 

【パラドゥーのモデル】
さすが文豪の書く香りの描写はイマジネーションに富んでいて素晴らしいです。ところでゾラはこの様な世界観をどのようにして描いたのでしょうか?それは幼少年時代に過ごしたエクス=アン=プロヴァンスの郊外がモデルとなっているようです。きっと取材にこの土地を訪れた際に嗅いだ香りは、幼少の頃の記憶を呼び覚まし、創作にインスピレーションを与えたであろうことは想像に難くありません。

パフューマーも幼いころからグラースの自然や香りに触れて育ったという方も沢山いるようですから、幼いころの体験はやはり重要なのですね。

余談ですがエクスは画家セザンヌが創作活動を行っていた地でもあります。ゾラとセザンヌは中学時代エクスで出会いその後親友となりました。しかし諸説ありますが、ルーゴン・マッカール叢書の第14巻「制作」がセザンヌをモデルとした作品であるであることから絶縁してしまいます。それもそのはず、モデルとなった主人公クロード・ランチエは才能がありながら評価されず、代々受け継いだ精神疾患も手伝い、悲劇の最期を迎えるという設定だからです。
クロードは前述の「居酒屋」や他の作品にもちょこちょこ顔を出して結構普通の人物のように描かれているので、「制作」のラストは「クロードまでも闇に引き込まれてしまったか」といった感じです。


そして話は戻り「ムーレ神父のあやまち」第3部のラストに向かうクライマックスシーンでも強烈な香り描写が出てきます。パラドゥーでの出来事を上回る様な荘厳な演出が待っています。ゾラの表現はとてもドリーミーでロマンティック、そして残酷です。ご興味のある方は是非ご覧ください。


今回は「香りと文学」というテーマで書いてみました。冒頭で「香りは文字から嗅ぎ取る事は出来ませんが、」と書いていますが、文字・文章で表現や伝達する事は可能です。逆に現時点ではまだ、PCから匂いが出てくるなどの技術は一般的に普及していないので、文章でしか伝える事は出来ません。

ということで、次回は香りを伝える手段。「香りの語彙・表現」について書こうと思います。

 

参考文献
Zola Emile著, 清水 正和・倉智 恒夫共訳『〈ゾラ・セレクション〉第3巻 ムーレ神父のあやまち』 藤原書店, (2003)
Zola Emile著, 清水 正和訳『制作(下巻)』 岩波書店, (1999)
Zola Emile著, 伊藤 桂子訳『ルーゴン家の誕生「ルーゴン・マッカール叢書」第1巻』 論創社, (2003) 巻末に家系樹有り
Zola Emile著, 石井 啓子訳『〈ゾラ・セレクション〉第4巻 愛の一ページ』 藤原書店, (2003) 巻末に家系樹有り

引用文献
(1)Zola Emile著, 清水 正和・倉智 恒夫共訳『〈ゾラ・セレクション〉第3巻 ムーレ神父のあやまち』 藤原書店, (2003) p.198
(2)同上p.208
(3)同上p.259
(4)同上p.269
(5)同上p.293