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香りのエッセイ

第十六話 ブルボンバニラとタヒチバニラ

casselmillefeuillevanillepicture【私たちにとってのバニラ】

皆さんは「バニラ」と聞いてどのような印象を持たれるでしょうか?

 

 

一般的にバニラのイメージは、アイスクリームのもっともスタンダードな味といった感が強く、面白みに欠けるものかもしれません。

 

 

1874年ハーマン&ライマー社(現シムライズ社)が、バニラの主要な香気成分であるバニリンを合成し、それ以来科学技術の進歩につれすっかり陳腐なものになってしまったこの香りですが、今でも本物のバニラビーンズは高級食材で、これを使った食べ物を口にした時に感じられる味わいは、決してありふれたものではなく、贅沢で忘れられない印象的なものです。

 

 

また、食品業界で重要なバニラですが、最初の現代香水と呼ばれるゲラン社のジッキー(1889年)に、このバニリン(合成香料)が使われているように、バニラはフレグランスにとっても欠かせない香りです、その役割は甘さを与えるだけでなく官能性を持たせる要素もあります。(私個人的には落ち着く香りでもあります)

 

 

今回はそんなバニラについてのお話です。

 

 

 

madagascanvanillapicture【バニラの歴史と名称】

メキシコ原産のバニラはラン科の植物の一種で、トトナカインディアン族によって発見されました。彼らは、そのままでは香気を持たないバニラビーンズを、キュアリングという酵素の働きや加水分解により、バニラの香気を作り出す工程を編み出し、現在のミルクココアの様な飲み物Chocolatlの香り付けに使っていました(この頃のキュアリングは熱湯を使わず天日に晒していた。また、Chocolatlはカカオと水、ハチミツを混ぜたものにバニラで香り付けをしていた)。それはトトナカ族を取り込んだ当時のアステカ帝国でも飲まれていて、1517年スペインからやってきたフェルナンド・コルテスにも振る舞われました。そしてコルテスはアステカを占領し、1526年にスペインに帰国、その後Chocolatlはヨーロッパの貴族社会へ広まりますが、その製法はしばらく明かされませんでした。

 

 

やがてバニラの切り枝はパリの博物館から植民地地方行政官によって1822年にレユニオン島に持ち込まれました。これが現在の代表的な品種Vanilla planifoliaの植物体でした。

しかしメキシコと違い、レユニオン島には花粉を運ぶメリポウンという小さな蜂がいなかったため受粉できず結実させることができませんでした。

そして1841年、レユニオン島の当時12歳の奴隷エドモンドにより受粉法が発見されました。熱い湯を通して行うキュアリング法が開発されたのは1851年で、それからバニラビーンズの輸出は加速しました。

 

 

やがてレユニオン人はその技術を持ってセーシェル諸島(1866年)、コモロ諸島(1873年)、マダガスカル(1890年)など周辺の島へ移住し、その生産量はレユニオンを上回るようになりました。

 

 

しかし、1874年にはドイツでハーマン&ライマー社がバニラの主要な香気成分であるバニリンを合成し工業生産していました。その後、科学技術の発展によりバニリンの合成はより容易に、そして価格は安価になり普及していきました。

 

 

1964年には合成バニリンとの競争に対抗するため、合わせて世界の85%のシェアを持つ島々のマダガスカル、コモロ、レユニオン、セーシェルの代表がレユニオン島に集まり会議を行い、加盟国製品の共通の名前としてレユニオン島の旧称であるブルボンから取った「ブルボンバニラ」とすることに同意しました。しかし、この同意は産地により香りの違いがあってもブルボンバニラと称されるため、本当のレユニオン島産の製品を見分けることが困難になりました。2000年にレユニオン島産バニラ価格維持協会が地理的表示保護制度PGIを利用し、本当のレユニオン島産の製品を”Vanille de l’ ile de la Réunion”と呼ぶことにしました(ワインの産地表示で有名な原産地名称保護制度AOCだと、レユニオン島の微妙な気候や土壌の違いにより、細かく地理的に分割しなければならないため、生産量が少ないこの島には合わないと判断し、PGI名称を選択した)。

 

 

 

tahitianvanillapicture【タヒチアンバニラ】

バニラと言えばVanilla planifoliaという品種で、特にブルボンバニラと呼ばれるマダガスカル産やレユニオン島産のバニラが高品質として有名ですが、タヒチアンバニラVanilla tahitensisというポリネシア(タヒチ)やパプアニューギニアでごくわずかに栽培されている品種(現在でもこのバニラの起源は不明だが、Vanilla planifoliaの変種であると考えられている)もあり、スイーツ界では高級食材としてフレデリック・カッセル社のミルフィーユなどに使用されています。フレグランスではGuerlain社のL’instant magic elixirに使われているようですが、限定販売だったようで、残念ながら嗅いだ事がありません。

 

 

長らくマダガスカル産のバニラしか嗅いだ事、食べたことが無かった私は、フレデリック・カッセル社のミルフィーユや、ハーゲンダッツ社のクリスピーサンドなどタヒチ産バニラを使っているというスイーツを食べて首をかしげることになりました。「思ったよりバニラ感がないなぁ」と。

 

 

気になって香気成分を調べてみると、マダガスカル産バニラと比べてタヒチ産バニラは、バニラらしい甘さの特徴となっている香気成分バニリンの含有量が少なく、代わりにアニスアルコールやアニスアルデヒドの量が多い事がわかりました。

 

 

文献で調べてみても嗅いでみない事には始まりませんので、早速マダガスカル産とタヒチ産のビーンズを購入してみました。

さやの状態で嗅いでみても、キャラクターははっきりと異なりました。マダガスカル産は水彩絵の具にラム酒と醤油とバニリンを混ぜたような香りで、タヒチ産はラムレーズンとバニラクリームにフローラルな華やかさが加わったような香りです。

 

 

もう少し専門的に表現すると、マダガスカル産はバニリンの甘さの他にクローブ様の深みやフェノリックな薬品臭さがあり、ややスモーキーでアニマリックな要素が感じられます。一方タヒチ産はアニスノート由来の滑らかな香りにバニリンの甘さが加わってクリーミーに感じられるほか、ヘリオトロープのようなフレグランス的フローラルな広がりのある香気が存在します。

 

 

一言で違いを表現するなら、マダガスカル産は「深み」があり、タヒチ産は「華やかさ」があるということになるでしょう。

どうやら私はバニラの香気に深みの要素であるクローブやフェノールの様な薬品臭さを求めていたようです。

 

 

合成のバニリン単体にはチョコレートの様な強い甘さは存在しますが、複雑な深みや、華やかさはありません。味わいのあるスイーツにはこのあたりの要素が欠かせないでしょう。しかし、天然のバニラは高くて有名で、さらにタヒチ産はマダガスカル産の倍以上の価格です。バニラは実際の生産高より、市場に出回っている量の方が多いと言われています。タヒチ産のテイストを出すためにはバニリンにヘリオトロピンやその他の香気成分を補ってタヒチフレーバーを作っているようです。

 

 

 

vanillatincture14thpicture【バニラチンキを作る】

せっかく二種類のバニラビーンズを手に入れたので、より香りを堪能できるようバニラチンキを作ることにしました。アークテンダーを参考にして室温でエタノールに漬けること2週間です。見事にそれぞれの特徴を抽出したバニラチンキが出来ました。

 

 

ただこれらバニラチンキは濃縮されていないので、香りが弱いです。エタノールの量も多いので、すぐに揮発してしまいます。そのような問題点はバニリンやエチルバニリン(バニリンの3倍の強さを持つといわれる合成香料)が開発されたことによって解消されました。安いし強度と持続量があるので、本当に画期的だったのだろうと想像できます。

 

 

バニラチンキづくりの詳細は「ティーブレイク」のカテゴリー「バニラチンキづくり」をご参照ください。

 

 

 

【バニラを用いたフレグランス】

冒頭で紹介させていただいた通り、現代香水はバニラノートを使用したフレグランスから始まっています。そして現在に至るまでバニラを使った香りは沢山作られ、これから先も作られ続けることでしょう。

 

 

そのような中で、バニラの香りを堪能できる香水はゲラン社のシャリマーです。シャリマーというと1925年に作られ、オリエンタルノートの名香として紹介される「香水の中の香水」というイメージで少々近寄りがたい気すらするのですが、フレッシュなシトラスと昔懐かしい毛皮のコートのような香りの奥から徐々にバニラの香りが現われてきます。合成香料のエチルバニリンを使用している事で有名なシャリマーですが、その香りは頭の痛くなるようなべったりとした甘さではなく、官能と安らぎを感じさせる穏やかな香りです。ムエットではアニマリックな香りが強く感じられてしまうため、ぜひ一度肌につけて時間の経過による変化を楽しんでいただきたい香水です。

 

 

そこまでバニラ感が押し出されている訳ではないのですが、男性用では同じくゲラン社のロムイデアルがあります。こちらは2014年にゲラン社の5代目調香師ティエリー・ワッサー氏が創作したフレグランスで、バニラにアーモンドやトンカビーンズなどのグルマンノートとヴェチバーのアコードが魅力的な香りです。パルファン・クリスチャンディオール社のディオールオム(2005年)やパコ・ラバンヌ社のワンミリオン(2008年)など、ここ数年間このグルマンテイストなラストノートを持つ甘いメンズフレグランスが流行っていましたが、ロムイデアルはゲラン社の持つ優れた天然香料を活かした伝統的なスタイルと現代的な香調をみごとに融合させた傑作だと考えています。そしてこのフレグランス創作のインスピレーションの中に、現代香水の祖の一つである同社のジッキーの存在がありました。

 

 

上手く使いこなしているなぁと思うフレグランスとしては、フローラルとアンバーにバニラを効かせたシャネル社のチャンスや、ローズとバニラを見事に融合させたトム・フォード ビューティ社のノワール ドゥ ノワールなどがあります。

 

 

私個人の好みとしてはシャリマーを除いて、バニラ(バニリン)を全面的に押し出した香りより、上手くアコードに取り入れて、フローラルやウッディノートなど他の香りとのハーモニーを奏でたフレグランスの方が好きです。

 

 

 

今回のエッセーは、昔から気になっていたブルボンバニラとレユニオン島産の関係や、最近気になりだしたタヒチ産バニラについてのリサーチを元に構成しました。歴史や名称の部分は講談社さんのフレーバー・クリエーションと、フレグランスジャーナル社さんのバニラのすべてを参考にしています。より詳しく知りたい方は、この2冊を参考になさってください。

 

 

 

参考文献

オドゥー・エリック グリゾニ・ミッシェル著 谷田貝光克監訳『Vanilla バニラのすべて-起源・生態・栽培・生産・利用を網羅-』フレグランスジャーナル社, (2015)

ゴズラン・フレディ フェルナンデス・グザビエ著 前田久仁子訳『調香師が語る 香料植物の図鑑』原書房, (2013)

日本香料協会編『香りの百科』朝倉書店, (1989)

吉儀 英記著『香料入門』フレグランスジャーナル社, (2002)

ライト・ジョン著 藤森嶺 和智進一 寺本明子 相根義昌訳『フレーバー・クリエーション』講談社, (2014)

Arctander Steffen “Perfume and flavor materials of natural origin” Elizabeth, (1960)

第十五話 香りと文学 2

laconditionhumainepicture今回ご紹介する『人間の条件』の著者アンドレ・マルローは執筆活動のみならず、軍人でもあり、さらに文化大臣でもあったフランスの作家です。

 

私がマルローを知ったのは、画家バルテュスをローマのフランス・アカデミー館長に指名したのがマルローだというエピソードを読んだことがきっかけです。

 

さらに自らが創設したパリ管弦楽団の音楽顧問に、ヘルベルト・フォン・カラヤンの就任を要請したのもマルローとフランス政府でした。

 

色々なところで名前を目にしているうちに、「アンドレ・マルローとは何者か?」と興味がわき、最初に読んだのがこの『人間の条件』です。

 

この小説は1933年にかかれたもので、中国の国民党と共産党の内戦を背景に、主に共産党側の人物の生き様(というより死に様)が描かれています。

 

ニュースで死者○万人という数を見聞きしても、それはただの数字としか感じられませんが、この小説では、死への行為からそこに至るまでの数秒間の出来事がつぶさに書かれ、非常にインパクトがあります。

 

2015年現在、日本では絶版となっているようですが、フランスで権威のある文学賞ゴンクール賞を受賞したり、1999年に発表されたルモンド世紀の100冊で5位に選ばれたりしています。

 

この「香りと文学2」を書くにあたり、候補となる作品は多々ありましたが、香りとは全く関係無く、壮絶な死のシーンと事後の空しさを感じたくて久々に再読した『人間の条件』に、意外と香り(というよりにおい)の描写があったことから、今回のエッセーに選びました。

 

息を飲む暗殺の場面から始まるこの物語にロマンティックな香りの描写はありませんが、登場人物たちは戦場の極限状態の中、感覚を研ぎ澄ませ、においを感じ取っています。

 

さて、それでは、各場面を見ていきましょう。

 

まずは、外の通りで仲間と語り合う際に漂う空気の香りの移り変わりです。

 

 

彼らは歩いた。二つの同じような影が足もとに落ちていた。・・・魚や焦げる油のにおいの漂う、静かなほとんど森厳な闇の奥に消えていた。(1)

 

それに、清には陳の顔が見えなかった。ひっそりした通りでは、遠く自動車の鈍い爆音が、風の音とともに消えた。風が凪いだあとには、夜の樟脳くさい空気の中に、果樹園の匂いが漂った。(2)

 

 

闇の中で周囲が良く見えない分、聴覚や嗅覚が敏感になっているように感じる場面です。ちなみに樟脳の香りは113.ページでも書かれています。

 

暗闇で感じるにおいについて、より決定的な描写がもっと先に出てきます。

 

 

戸外の空気が、森のそれのように心を静めた。霧は、十一時ごろよりずっと薄らいでいた。たぶん雨が降ったのだろう。なにもかもがぬれていた。暗闇の中に黄楊も柾木も見えなかったが、そのほろ苦い匂いでその暗い葉の繁みがそれと分かった。(3)

 

 

背景は1927年ですから、当時は今では考えられないくらい夜は暗かったのでしょう。

 

続いては、戦闘の直前に漂うにおいを敏感に感じ、昔の戦場を思い出し、緊張感を高める石油や石炭のにおい。

 

 

石油の強烈なにおいが、ふっと、陳に、暴動の最初の日、警察の焼き打ちに使った石油かんを思い出させた。(4)

 

 

68ページでコミュニストの仲間であるカトフも、石炭のにおいを嗅いで過去の戦いの記憶を思い出しているシーンがあります。どうやら石油や石炭のにおいは戦いの記憶をよみがえらせる様です。

 

 

ここからは、少々きつい死のにおいです。

 

 

死体のにおいが、風のさっと吹くたびに、じっと動かぬ日差しの中に漂って来た。彼は、その死臭には慣れていたが、およそ生ある者の本能的な反抗でそれをかいだ。ぞっと悪寒に襲われながらも、心ゆくまでそのにおいを吸い込む彼は、陳の面影につかれていた。(5)

 

 

164ページで、鈍い日差しとともに犬がなにかの死体に食いついているにおいについての描写があり、仲間に手を貸してあげることが出来なかった後悔の念が強調されるように、その前後にこの死臭について書かれています。

 

さらにお次は、自らの立場が劣勢になり、孤独な逃亡の中、風に乗って運ばれる不快な臭いが徐々に強く感じられ、自らの死が近づいていることにおびえる恐怖の死臭。

 

 

死、じぶんの死すら、ここでは、じぶん自身侵入者のような気がしたほど人の世らしくないここのふんい気の中では、さして切実には感じられなかった。・・・支那人町の死臭が、また吹き出した風に運ばれてきた。クラピックは、呼吸をするのにも、努力しなければならなかった。不安が戻ってきたのだ。彼は、死の考えには死臭よりまだしも容易に耐えられた。この死臭が徐々にこの風景を侵してきた。・・・≪これは夢かしら?≫しかし、悪臭は、彼を、この世に、この不安な夜に引き戻した。(6)

 

 

前述のコミュニスト(エンメルリック)が「仲間に手を貸すことが出来なかった後悔」で、死臭を吸い込んでいた描写から一転、ここでは零落した骨董商(クラピック)が見舞われた、耐えられないにおいとして書かれています。

 

そして、自分の家族が惨殺され、一面に広がった血の海から、息も出来ないほどの臭気を放つ血のにおい。

 

 

女房は、胸を紅に染めて、うずくまるようにしてカウンターにもたれかかっていた。片隅には子どもの片腕。その手は、こうしてからだから切り放されると、いっそう小さく見えた。・・・靴底を通して、ねばねばした床が感じられた。・・・エンメルリックは、一面に流れた血のにおいに圧倒されて、ほとんど息もつけなかった。・・・しかし、彼はこの場を立ち去れなかった。(7)

 

 

前述のエンメルリックは再び死のにおいに直面しますが、今回は自身の家族。息もつけないほどでしたが、彼は復讐の思いを胸に再び歩み出します。

 

最後に、投獄された時に感じた不快なにおい。

 

 

監房にはいると、あたりを見る前に、鼻持ちのならない悪臭に茫然とした。まるで屠殺所か、犬小屋か、糞のにおいでいっぱいだった。(8)

 

 

全てではありませんが、これが『人間の条件』に書かれた香りの表現です。いかがでしたでしょうか?

 

これらの香りの表現は特別印象的に書かれている訳ではなく、まるで不快感や不安を煽る演出のように存在しています。

 

この小説は触覚と視覚、聴覚に関してはかなり詳細に書かれていて、特に人物の死ぬ場面で、「マルローは実際死を体験しているのではないか」と思うほどのリアリティを持って書かれています。

 

嗅覚に関する描写はそれほど多くはありませんが、文章の上手さでしょうか?書かれていない部分までにおいを感じていたところがありました。例えば、爆風で吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた時に感じたような「砂ぼこりのにおい」。書いてあった気がしましたが、実際には書かれていませんでした。スローモーションのように描かれる戦闘のシーンでは直接書かずともにおいが感じられる様なリアリティのある描写が行われていると感じています。

 

なんだか、においの描写を抜き出していたら、ひどく凄惨な物語のように紹介することになってしまいました。実際お気楽な内容ではないのですが、後味は悪くありません。戦いの悲惨さがテーマの作品では無いからです。おそらくこれは意志の物語でしょう。この発表された時、マルローは31歳でした。この物語にはジゾール老人という主人公の父親がいるのですが、戦闘から一歩引いた年長者の視点が、いわゆる戦争作品とは異なる印象を与えているのだと思います。ロマンティック過多な読書傾向の私にとっては、かなりのインパクトがあった作品です。

 

全くの余談になりますが、この作品は今まで数度映画化が検討されたようですが、いまだに実現されていません。その中の一度は、あの坂本龍一氏がアカデミー賞を受賞した『ラストエンペラー』と共に、ベルトルッチ監督が中国政府に提案した企画でした。結局、中国政府は『ラストエンペラー』を選び、ご存じのとおりアカデミー賞9部門を受賞した名作となりました。

 

今回はかなりヘヴィーな内容となりました。次回はロマンティックな描写が多い作品を選ぶ予定です。

 

 参考文献

Malraux André著, 小松清・新庄嘉章訳 『世界文學全集33 人間の条件・王道』 新潮社, (1962)

 

引用文献

(1)Malraux André著, 小松清・新庄嘉章訳 『世界文學全集33 人間の条件・王道』 新潮社, (1962) p.135

(2)同上 p.137

(3)同上p.225

(4)同上p.171

(5)同上p.166

(6)同上p.225-p.226

(7)同上p.233

(8)同上p.257

第十四話 シプレーの魅力

chypredestella【シプレーとは】

香水の世界でよく耳にするシトラス系、フローラルブーケ系、シプレー系、フゼア系、オリエンタル系、これらはそれぞれの香調を分類してつくられた系統です。

 

 

シプレーという名の香水は以前から存在していましたが、1917年にある出来事によりその定義が決まります。

 

 

この年にフランソワ・コティによる”Chypre de Coty”という香水がリリースされ成功し、これに影響を受けた香水が続々作られ一つの系統としてまとめられるようになりました。

 

 

シプレーのベースとなる香料は文献により様々ですが、オークモス(樫の木に生える地衣類ツノマタゴケ)、シスタス・ラブダナム(ハンニチバナ科のロックローズから得られる樹脂)、パチュリ(乾燥させて虫除けにも使われていたハーブ)、ベルガモット(主にイタリアのカラブリアで採られる柑橘)などが主にあげられています。

 

 

そのシプレーの骨格を持って作られた香りは華やかさとミステリアスな魅力に満ちており、少しクセはありますが心を捉える媚薬のような要素があります。

 

 

【シプレーの歴史】

このシプレーという名の語源はキプロス島から来ています。この地中海の島は、ギリシア神話で愛と美の女神アフロディーテが上陸した地といわれており、紀元前2000年頃の産業工場で香油が生産され粘土で作られたジャグに入れて保管されていたことを示す遺跡が発見されており、フレグランス制作にインスピレーションを与えるには十分なエピソードであったと考えられます。

 

 

また、キプロス島では、羊の毛に付着した樹脂を羊飼いが梳いてシスタス・ラブダナムを取っていたこともありました。このシスタス・ラブダナムはアンバーの様な香りを持つシプレーノートの重要な構成成分の一つです。

 

 

シプレーという名が初めに香料に用いられたのは14世紀で”Oyselets de Chypre” (キプロス島の小鳥)という、ラブダナム、スチラックス、カラムス、そしてトラガカントガムと共にペースト状にされ、鳥の形にかたどられたものでした。これらは大陸では非常にポピュラーで、お香のように燃やされていたようです。

 

 

14世紀の終わりごろには、この基本処方にオークモスが加えられました。1693年に調香師のシモン・バルブがまとめた”Le Parfumeur François”という本には、シプレーとも呼ばれるオークモスの髪粉の製造法が書かれており、ジャスミンやローズ、その他の粉を使ったPoudre de Chypre(シプレーの髪粉)は最新のお浄め方法だったようです。その後も変調が加えられ1777年に蒸留業者ドジャンによって書かれた”Traité des Odeurs”という本には、ジャスミン、アイリス、アンジェリカの種、ナツメグ、ローズムスク、ネロリ、アンバーを使ったEau de cypre(オークモスは使用されていない)の他、木の苔(mousse d’arbre)とムスク、アンバー、シベットを基本とした、Poudre de Cypreの基本の処方や、オークモス、オレンジフラワー、ベンゾイン、スチラックス、シベット、アーモンド、カルダモン、バラ、クローブウッド、サンダルウッド、そして樟脳が使われた、手の込んだ処方などが載っています。

 

 

マリー・アントワネットの調香師であったジャン=ルイ・ファージョンが1801年に著した”L’art du Parfumeur”という本にはドジャンの”Traité des Odeurs”の処方が記載されています。

 

 

1809年ベルトランによって書かれた”Le Parfumeur Impérial”に記載されているEau de Chypreはジャスミン、ベルガモット、ヴァイオレット、チュベローズ、アンブレットシード、ベンゾイン、トルーバルサム、スチラックス、アンバー、ムスク、ローズで構成されています。Poudre de Chypreはオークモスをベースに様々な花や樹脂が使用されていました。

 

 

その後、これまでのシプレーの流れを引き継いだロジェ&ガレ社の“Chypre”(1890年)、ゲラン社の“Le Chypre de Paris de Guerlain”(1909年)が発売されましが、これらはオークモスのアーシーノートが強い物でした。

 

 

そこに、ジャスミンを多量に使用し、合成香料を巧みに使った新しいシプレーの解釈を持って1917年に創造したのがコティの”Chypre de Coty”でした。

 

 

これ以降は、このコティのシプレーの流れを汲んだ香水がシプレーという系統にまとめられています。

 

 

 

【シプレー系フレグランス香りの魅力】

シプレー系フレグランスの香りの魅力は、ミステリアスさと中毒性にあると思います。

 

 

フルーティフローラルやフローラルブーケは「良い香り」、「かわいらしい」、「華やか」などのイメージがあり100%女性の香りですが、シプレーは花々の香りがフワフワと飛んで行かず良く練られていて、少し影があって、いくらか男性的な要素があり、そこにミステリアスさと中毒性があります。

 

 

そんなシプレーノートを構成する素材で、私が心惹かれる香料がパチュリです。その香りは私見では水墨画のようなイメージで、少し日本的な湿っぽさを感じさせながらシャープに香り立つ存在感のある香りです。

 

 

このパチュリの鋭い矢が、ローズやジャスミンなどの美しい花々の羽を伴って心を貫き、香りの痕跡を残されるような、そんな刺激的な体験がシプレー系フレグランスにはあります。

 

 

そもそもパチュリに日本的なイメージを感じるのは、子供の頃に和室で嗅いだゲラン社のシプレーを代表する香水ミツコの香りが心に残っていたからかも知れず、そうであれば私はすでに幼い頃シプレーの毒(魅力)に侵されていたことになります。

 

 

現在はエッセンシャルオイルで嗅げるような、上記のような印象のパチュリだけでなく、分子蒸留でよりフレグランス製品に適した香りに調整したパチュリも使用されているようです。

 

 

 

【心に残るシプレー系フレグランスのご紹介】

以下に挙げさせていただいた6点のシプレー系香水は私の心に残ったもので、簡単な特徴を述べさせていただきます。

 

 

グッチ社のラッシュ(1999):ガーデニアとパチュリ、バニラのアコードに稲妻のような刺激を受けるオリエンタルシプレーノート

 

 

シャネル社のココ・マドモワゼル(2001):ローズ&ジャスミンのフレッシュな香り立ちから、パチュリ&バニラのセンシュアルな残り香へといざなうフロリエンタルシプレーノート

 

 

トム・フォード社のノワールドゥノワール(2007):花のエッセンスを濃縮したような濃密なオリエンタルシプレーノート

 

 

ゲラン社のイディール(2009):ジャスミンやリラ、ムスクが織り成す黄金の輝きに抱かれるような美しいフローラルシプレーノート

 

 

ボッテガ・ヴェネタ社のオー・レジェール(2013):ガーデニアやジャスミンのフレッシュな部分を特徴としたマイルドなフローラルシプレーノート

 

 

ディオール社のグリ・モンテーニュ(2013):花々が咲き誇るフレッシュなガーデンを歩くような瑞々しいフローラルシプレーノート

 

 

使いやすさでいえば、オー・レジェールやグリ・モンテーニュ

 

 

刺激を求めるなら、ラッシュやココ・マドモワゼル

 

 

光り輝くフレッシュな花々の香りに包まれたいなら、イディールやグリ・モンテーニュ

 

 

濃密な時を過ごしたいなら、ノワールドゥノワール

 

 

以上のような感じでしょうか?

 

 

シプレー系フレグランスは香水らしい香りなので、万人受けは難しいかもしれませんが、当たり障りのない香りでは得られない魅力がありますので、新しい香水を探す時にはぜひ試していただきたいです。

 

 

参考文献

ゴズラン・フレディ フェルナンデス・グザビエ著 前田久仁子訳『調香師が語る 香料植物の図鑑』原書房, (2013)

 

シャザル・マルティーヌ 高波眞知子著『きらめく装いの美 香水瓶の世界』ロータスプラン, (2010)

 

中島基貴著 『香料と調香の基礎知識』 産業図書,  (1995)

 

日本香料協会編『香りの百科』朝倉書店, (1989)

 

広山均著『名香にみる処方(レシピ)の研究』フレグランスジャーナル社, (2010)

 

ルドニツカ・エドモン著 曽田幸雄訳『香りの創造』白水社, (1988)

 

遠藤賢朗著『COTY(コティ)香水の帝王と呼ばれた男』里文出版, (2013)

 

BARBE Simon “Le Parfumeur François” Michel Brunet, (1693)

 

BERTRAND C. F. “Le Parfumeur Impérial” Brunot-Labbe, (1809)

 

DÉJEAN M. “Traité des Odeurs” Veuve Savoye, (1777)

 

FARGEON Jean-Louis “L’art du Parfumeur” Delalain Fils, (1801)

 

Poucher W. A. “Perfumes, Cosmetics and Soaps Volume 2 Ninth edition” Chapman & Hall, (1993)

 

Roach John “Oldest Perfumes Found on “Aphrpdite’s Island”” National Geographic Society, (2007)

第十三話 キュイール ドゥ ルシーの香り

cuirderussiepicture【香水に使われるレザーの香り】

皮革の持つ独特なにおいは、モチーフとして香水にも使用されており、レザーノートとして分類されています。そのレザーノートを作るのに必要な香料素材にIsobutyl quinoline (イソブチルキノリン)という単品香料があります。

 

 

黒いゴムを思わせる重たくて苦いような香りは、私の想像していたレザーの香りとは違うもので、「これがレザーノート?」と首をかしげたものです。

 

結局は「これをうまく他の素材と組み合わせて、より本物らしいレザーノートを作り上げていくのだろう」と自分を納得させていました。

 

 

その他にはバーチタールやケードという天然香料がレザーノートに使用される様ですが、残念ながらこの2品は嗅いだ事がありません。

 

 

その後も私にとってレザーノートは気になる香りではあるけれども、身近な香り、愛すべき香りではなく、微妙な距離感を持ち続けていました。

 

シャネル社にはCUIR DE RUSSIE (キュイール ドゥ ルシー)という香水があることは知っていましたが、過去にはゲラン社も同名の香水を出していたことを知り、少しずつ興味が再燃してきました。(ゲラン社は1875年創作、シャネル社は1927年創作)

 

 

「スウェードとか、ラムとか、コードバンとかは聞いたことあるけれど、そもそもCUIR DE RUSSIE (ロシアの皮革)って、なんだろう?」

 

 

 

【CUIR DE RUSSIEというロシアの皮革】

ロシアン・カーフとも呼ばれていますが、実際にはカーフ(仔牛の皮革)ではなく、レインディア・レザー(トナカイの皮革)なので、ロシアン・レインディア・レザー(ロシアトナカイの皮革)というのが正しいようです。

 

この皮革の特徴は革の柔軟性と耐水性、また仕上げに白樺のオイル(バーチタール)を使用することによる防虫性と独特な芳香、さらに網目模様の型押しなどがあります。

 

 

17-18世紀、ロシアの皮革は品質が高くて有名で重要な輸出品でした。靴や鞄などの皮革製品に利用される他、宮廷で貴重な宝石を包むのにも使われていたそうですが、1917年に起きたロシア革命により生産が停止し、その技術等は伝承されずロストテクノロジーとなってしまいました。

 

 

そんな過去の遺産が偶然にも沈没船の中から発見されました。

 

1786年、Metta Catharina号(メッタ カタリーナ)は、ロシアのサンクトペテルブルグからイタリアのジェノヴァへ麻とロシアンレザーを運んでいたところ嵐に襲われ、避難するために上陸しようとしたイギリスのプリマス湾で沈没。約200年の時を越え1973年に発見されましたが発掘には30年以上かかりました。

 

 

保存状態がそこそこ良かった皮革は現在200年レザーと呼ばれ製品に加工され販売されています。

 

 

詩的な意味合いで使われていたのだと思っていたのですが、ロシアの皮革は物として存在したのです。

 

 

 

【キュイール ドゥ ルシーの香り】

ロシアンレザーが存在すると知った私は、どうしてもそのにおいを嗅いで確かめてみたいという思いに駆られました。

 

 

色々調べてみると高級な靴や鞄、財布のオーダーで使われていましたがとにかく値段が高い。引き上げされたイギリスでは扱っている会社がいくつかあり、割と安くキーホルダーに加工している会社もあったのですが「それはそれでちょっと・・・」と思っていたところ、ペンの柄にロシアンレザーを巻いている製品を見つけました。

 

 

しかし、実店舗で扱っているお店が見つからず、「購入してにおいが無かったらどうしよう・・・」(外気にさらされる環境だと数年でにおいがなくなってくるらしいです)と不安を抱きながら半年くらい悩み、ようやくネット通販で購入してみました。

 

 

ドキドキしながら箱を開けてみると、評判通りの独特な芳香がありました。

 

 

第一印象は汗が浸みこんですっぱい臭いを放つ革です。アンモニア臭のようなツーンとした臭いが感じられます。

 

 

その他にはスモーキーな香りも感じられ、さらにその奥に冒頭でお話ししたIsobutyl quinolineのような香りを感じることが出来ました。

 

 

つまりIsobutyl quinolineのレザーノートとは、ロシアンレザーの香りのことだったのです。

 

 

 

【キュイール ドゥ ルシーの触り心地】

せっかくなので香りだけでなく、触り心地の特徴もご紹介いたします。

 

 

あくまでペンの柄としての触り心地ですが、表面はなめらかでないので凹凸を感じ、革質はしっとりと柔軟です。

 

 

この凹凸としっとり感が妙に生々しい皮感(革ではなく皮)を感じさせます。

 

 

生きているっぽいといいますか・・・、人を選ぶ触り心地だと思いました。

 

 

 

ロシアンレザーは希少な皮革ですが、様々な製品に加工されており、まだ入手可能です。CUIR DE RUSSIEの香水はシャネル社の限られた店舗で販売しています。

 

 

幻の皮革ロシアンレザーの香りに興味を持った方は、今のうちに失われゆく香りを体感してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

【追記:よみがえるロシアンレザー】

 この記事を書いてから2年以上経った2016年10月25日にLVMHから思わぬ発表がありました。

 

 

“Moynat revives Russia leather”

 

 

1849年からトランクなどを作っているフランスのメーカーで現在はLVMHグループのMoynat(モワナ)が、ロシアンレザーのアップデート版を2017年のニューコレクションで販売するようなのです。

 

 

LVMHグループに属するフランスのなめし皮工場Tanneries Rouxとの協力で作られるとのこと。

 

 

発表には匂いに関する記述もあり「煙とお香と没薬(ミルラ)を混ぜ合わせたようなエレガントな香り」のようです。

 

 

長く綿密なリサーチから再発見されたものは、オリジナルの製法を現代版にアップデートさせたものとのことで、失われたロシアンレザーと全く同じでは無いようですが、耐久性、美しさ、特有のスモーキーな匂いに関しては、しっかり押さえた製品になっているようなので、ちょっと気になるところです。

 

 

 

参考文献

中島基貴著 『香料と調香の基礎知識』 産業図書,  (1995)

マッツエオ・ティラー著 大間知知子訳 『シャネルN°5の秘密』 原書房,  (2011)

第十二話 嗅覚の順応

今回の香りのエッセイは「嗅覚の順応」についてです。

 

 

 

ある日の大雪と強烈な寒さから、38度代の高熱を出してしまった私は2日間入れなかったお風呂にようやく入ることができたのですが、「あれっ、シトラスの香りがこんなに強かったかな?」と、いつも使っているシャンプーの香りがちょっと違う気がしました。

 

 

 

これが嗅覚の順応という現象です。

 

 

 

ずっと同じ香りのものを使っていると、いつの間にかその香りを感じにくくなってしまう現象です。

 

 

 

この現象はシャンプーなど使用量が一定のものは良いですが、香水など好きなだけ量をつけられるものは、初め1プッシュだったものが、継続して使っているうちに匂いがあまり感じられなくなり、「もっとつけた方が良いのかな?」と思い2プッシュ、3プッシュと使用量が増えてしまう可能性があります。

 

 

 

私は使っていないのですが、香りの強い柔軟剤も毎日のように使っていると、使い初めに使用していた量では物足りない気がして、使用量が増えてしまうかもしれません。

 

 

 

これは自分では物足りないと思っているのに、周囲の人からは「強烈なにおいを放っている」と思われる可能性がある状態です。

 

 

 

同じ香り製品を毎日使っているという方は、2~3日使わない日を設けて、鼻を休ませることも大切です。

 

 

 

または、きめられた使用量を守るとか、トワレ類はウエストに1プッシュ以上つけないとか、使用量を増やさないこともポイントです。

 

 

 

たまにお店で香水を試す際、腕に勢いよく2プッシュくらい吹きかけられることがありますが、これは恐らく日本人が日本人に求める香りの強さを超えていると思ってしまいます。

 

 

 

話を戻しまして。順応している状態は自分では分かりづらいので、このような現象があることを頭に置きつつ香り製品を楽しみましょう。

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